「老婆によりそう柴犬、ふたりのきずな」 その2
老婆が語るには、家には寝たきりのおじいさんがいるとの事、介護は5で重病。ふたりきりの生活をしている。身寄りはいないそうだ。
たよりになる老婆自身も、最近はめっきり体が衰えてきたとの事、自分が動けなくなったら家庭は崩壊してしまう。
大変な危機感をもっているから毎日、介護の手のかからない時間をつかい歩く事、少しでも体力をつける事を心がけているらしい。
そんな毎日の過酷な日々の努力があって、命をつないでいることに、とても衝撃をうけ、あらためて柴犬の存在の大きさに思い知らされる私でした。
そうだ肝心な、柴犬の名前を聞こう。
「おばあさん、この柴犬の名前はなんて言うのですか。」
「裕次郎と言う名前だよ」
エェー、これは覚えやすい石原裕次郎の裕次郎と覚えとけばいいんだ。
それからは会う度に「裕次郎」と声を掛けるようになりました。
月日も過ぎ、私も仕事の関係で通勤の道が、まったく逆の方向になり益々、会う機会もなくなりました。
あるとき、風の便りで、この街におばあさんと仲良く散歩していた忠義ものの犬がいるという噂を聞きました。
でも最近はその犬だけが、道の所々の場所に座ってはうずくまり声をかけても無意識に寂しそうにじっとしている話を聞き、それは絶対に老婆と柴犬の裕次郎だ‥と思い、居ても立つてもいられなくなり、そのあたりを探してみましたが見当たりませんでした。
それから時間がある度に、あの頃に出会った道を歩くのですが、会えていません。
きっといつの日か、三つ目の『おとぎ話し』のような、老婆と柴犬が休息している微笑ましい光景に出会えるように‥‥今日も歩いています。
この話の感動は、真の美しさや厳しさ、
更には悲しみまでも、生きる者との思いやりや
交わりの中で初めて光輝くものだと実感しました。
それは人間だけではなく犬も含めて言える事だと思います。
この話の輝きは、おばあさんの、おじいさんに対する
思いやり、交わりの中でおばあさんに従う裕次郎くんと
おばあさんとの感動の話であり、
次にあきらかに裕次郎君が、失ったと思われるおばあさんとの交わりから、裕次郎君の悲しみが生まれている。
というのは、 おばあさんが家で病気で寝ている場合は、裕次郎くんは、おばあさんのもとを離れず寄り添って生きているはずであるから…。
でも、残念ながら、おじいさんの生死は、犬の行動からは、判断できません。なぜなら、裕次郎くんは、おばあさんの思いやり交わりを中心に生きてきたからですね。そういう意味で、おじいさんはいったいどうなったんだろう....という思いに私はかられました。
犬の愛の様式には、人間のように、間接的な思いやり、交わりを求めるのは、難しいと感じられます。
というのは、裕次郎くんが、道の所々の場所にうずくまって寂しそうにしていたのは、裕次郎くんにとっては、おじいさんに対する思いやりではなく、おばあさんとの思い出のほうが、重要であったはずだからです。
この様に考えるのも、私が動物ではなくて、人間だからでしょうか?
それともおじいさんも、おばさんも、死んでしまったのでしょうか?
そうだとしたら、裕次郎くんこそ、本当に、人間以上の悲しみを背負ってしまったのかもしれませんね........。